昭和5(1930)年、長井市生まれ。終戦後、予科練から帰郷し教師の道へ。
傍ら、木版の道で研鑽に励む。昭和24年(19歳)、中学校に奉職中、陸上競技の円盤が頭部に当たる事故に遭い入院。入院中、白黒版画で著名な平塚運一氏の技法指導書に出会い、氏に深く傾倒。終生版画の師と仰ぐ。昭和30年(25歳)、自作の川柳30句が県紙Y紙に掲載され、翌年以降、『川柳山形』誌の表紙を木版で飾る(50余枚)。
昭和36年(31歳)、以前の頭部負傷の後遺症のため福島医大に入院するも、回復時に右半身不随。左手だけで彫刻刀の細かな操作の修練を積み重ねる。昭和40年(35歳)、東北現代美術協会(現北展)会員に推挙される。常に変わらぬ最上川の情景や廃れ行く古民家等をモチーフに、白と黒のみで数多の作品を残しているが、左手のみの造形性は20代と比べてむしろ豊かさを増している。その基底には、抜群のデッサン力と、「版画とは何か」を問い続ける精神的な強さがあった。
昭和43年(38歳)、伊佐沢地区の”念仏踊り”をモチーフにした作品で日本板画院(hangain)会員(現同人)に推挙される。30代後半、長井俳句会に参加して研鑽を積む。中央の俳人とも交流し、俳句のイメージから絵柄を追求して1枚の板に彫りこんで創る「俳画」に挑戦する。